むなつきはっちょう

個人的徒然気ままブログ

書きかけの雑文 つくりかけの自己

 
 
このブログをちょっと読み返していて
全然書いてないなと思ったので
まとまってないものをまとめて載せてみようと思いました
やはり完成しないと載せないようにしていたことで
全然結果に至らないものやただの文句みたいなものとか
結論は出てないけれど言いたいことなどが結構たくさんありました
 
 
 
 
何かやりたいことないの?とか
はやくやりたいこと見つけなよ!とか
まだやりたいこと見つかってないの?とか!
 
 
 
 
 
仕事を辞めてからそれはそれはもう色々と考えました
いろんなところに出かけてできるだけいろんなものを取り込もうとしたり
自己分析やら自己啓発やらなぜニートになるのかなどいろんな本も読んだりしたけど
結論はお金を稼ぐためのやりたいことなんてありませんでしたでした!
 
 
 
そんなのはよほど特殊な環境に生まれ育った人とか
よほどの不幸体験などをしているひとじゃないと
なかなか コレ!!というものはないのではないか
 
 
 
別に仕事は何でもよくて
たぶん働く場所ですでに自分というものが承認されていて欲しいだけだったりする
今日からいきなり社会に放り出されて社会なり
会社なり仕事なりなんなりを好きになれとかいうのが難しい
仕事というのはその仕事に就いている人以外には
一体どんなことをしているのかよくわからないし
働く前から社会との繋がりや承認を
もっと得られていればよかったのかもしれないけれど
学生時代から服を作ってショーをやってましたとか
学生時代から働きたいところでアルバイトしてましたとか
それもいいけど
もっと自然に一生懸命生きてたら生きてゆける
一生懸命勉強してたらよいのですなんてひとむかしまえ
どういった人がどういった役割をしてどれくらいのお金をもらっているのか
そしてああ自分はこれを担っていくのだなみたいなビジョンが全然見えなかったのは
自分のやりたいことをみつけなさいと言っているのに
教えてくれることはそうじゃない時代と変わらぬ教育のせいだ!
なんて言ったってまけおしみ!
 
 
「自分探し」が若者の標語となったのは、
彼らが個人主義化、脱社会化したからなどではなく、
社会性のもつ規範的なくびきが耐えがたいまでに嵩じたためではないだろうか。
社会とは、自分の思い通りにはことが運ばない、
どうしようもなく強大な力をもった怪物であることが身体に刻みつけられる。
 たいていの若者は、幼少期から青年期にかけて独特の
「社会との出会い」をすでに痛切に経験している。
「脱社会化」する以前に過剰な「社会化」の洗礼を受けているのだ。
 「社会に出会う」ことによって激しい外傷を負った経験のある者にとっては、
社会は恐怖と嫌悪の対象とさえ感じられる。
そこで、社会性に回収されない固有の「自分」に安住の地を求めようとするのである。
 
http://www.geocities.jp/japankaroshi/yaritai.htm
「草食系」のための日本的経営論 大野正和
やりたいことの社会性
 
 
 
このやりたいこと探しというか社会での自分の立ち位置を自分で
求め見つけて行かなくてはならなくなったのは
明治以降から始まってるらしいのに未だに社会は
自分が良いと思う方向と社会が進む方向が逆だったならば
自由は認められているけれど勝手にやりなさい方式で
ああやってやるさ!とは素直に言えない
だって生まれながらに贅沢してる私たちですから
お金がないと困るんです
清潔な暮らし美味しい食べ物
健やかかどうかわからないけれどとりあえず読み書き等の教育
そんなものをいまさら捨てることはできないの!!
だいたいやりたいことのできる社会って素晴らしいとか言ってるけど
みんながみんなやりたいことやったら社会なんて成り立っていかないのに
きれいごとばっかりじゃもう本も売れませんよ!
別にやりたいことがない人はそれはそれで
死に物狂いで頑張らなくても自分の暮らしを築いてゆきたい
でもそれじゃダメみたい
 
販売ぐらいしかやったことがない私なのですが
消費者としての人々のあり方を見ていると
もう世界は滅んだほうがいいんじゃないかって思ったりするのも苦痛で
そりゃあ優しい人だけの世の中じゃないことはわかっておりますが
自分がそういう曇ったフィルターを通して
人々を見ているからだと言われるかもしれませんが
どんなに優しい眼差しで眺めてみたところで
関係は対等ではないし
個人的な怒りを言わせてもらえば
小さな消費者を育てていることに無自覚な親たちを
もう見たくなくて
あと
何においても自分に非がないと思っている人々も
そしてそこでは私を人ではなく販売する役割をもった生き物とでしか捉えてもらえない現実
だって将来の夢は何をやりたいかじゃなくて何になりたいかってゆーから
自分ではない何かにならなければいけないみたいで
だけど田舎の食堂のおばちゃんとかもうなんの違和感もなく
その人の生活がにじみ出てていいよねほんと
注文したいのにおばちゃんテレビみてて
ちょっとまってねーとか全然そーゆーのでよくて
ちょっとムっとしてたらサービスにデザート出してくれたとか
おばちゃんの自由自在なアレンジ
デザート食べてたら孫かと思われる子供が
やってきて一緒にデザート食べ始めたりとか
食堂のおばちゃんであると同時にああこの人だれかの
お母さんだーおばあちゃんだってゆー
お母さんてゆーのも役割か!笑
とにかく生活の延長上の労働というか
仕事の背後にその人の生活を想像できなくなってる気がしてさみしい
人間性が感じられないから怒ったり無視したり蔑んだり無茶言ったり文句言ったり
できちゃうのかな
 
 
 
 
子供の話
 
子供を産むとはどういうことか
将来の夢に職業を言わせるくらいだから
子供は労働するために生まれてくるのか
自分を看取らせるために生きる苦しみを受ける人間を増やすのか?
当たり前のように子供が生まれることを祝福するが
はたして本当に良いことなのか?
人は輪廻するのならこの世に生まれる命の数を減らしたら解脱する人が増えるじゃないの?
とか思ってみたりそれは人間界じゃない界の生き物の数が増えるだけかもしれないけれど
生まれた子供に対して
「一緒に野球がしたいです」とか
「将来娘と二人で美味しいものを食べに行ってお父さんには内緒ね~みたいな感じで過ごしたいです」とか
いってる人々を見ると子供を産むことってそんなことの為なの?と思ってしまって
「やりたいことを見つけて一生懸命それに突き進んでいってほしいです」とか
やりたいことをやっててもも暮らしていけかもしれないというリスクをご存知で?
と問いたいごめんなさい心が悪魔と取引したみたいになってる
子供に対する願いというのはエゴだ!てゆーか子供自体が親のエゴだ!
けどエゴとか言っちゃうと身動き取れなくなるからやめましょう
あと子育てママの強すぎる正当性も私は今子供がいないからかちょっと嫌
そのうち優しくなれる日が来ることを願う
親になれない場合はいつまでたっても
子供のように自分の世界だけを信じ続けるのだろうか
でも歴史上の偉大な人で自分には子供はいないけれど
教え子はたくさんいますみたいな人がいるのを発見して
DNA的な繋がりはないけれども
思想や技術みたいなもので繋がっている絆や愛なんかも
いいなあって思った
 
 
この夏 お盆の時期に
人はなぜ生まれ変わるのに祖先を参るのかと思って
インターネットで調べてたんです
別に来世があるとかないとか固く信じてるわけじゃないけど
ひとつの可能性としてもし生まれ変わるなら
ご先祖さまを参ることに何の意味があるんだろうと思って
だって自分が誰かの先祖の生まれ変わりだとでしても
参られてる感ないしきゅうりに乗ってどこにも帰ったりしないし
北海道でなすときゅうりのやつ見たことないし

すっごくあやしいサイトにたどり着いて
まず最初の問に関しては
人間はそんなに短い日数で生まれ変わりませんということでした
どうやら人が生まれからるのには49日じゃ全然たりなくて
短くても1000年かかるとのことでした
49日は人生を精算する日数だっけ?まあいいや
だからぜんぜんひいおばあちゃんとかはまだ私たちと繋がっていて
私たちがきちんと先祖を大切にすることはすごく重要みたい
私たちが先祖に想いや祈りを捧げることは霊界で迷子になってる先祖を救って
先祖たちをより高い次元のエネルギーと結びつけるらしいよ!
高次元とかエネルギーとかゆーワードで一気にウソっぽくなったー!
 
ここからは私がそのサイトからとったメモです
 
肉体を持って生きている人間の「霊的存在」としての生きる意味は?
→新しいアイディアを生み出すこと 出会い・異なる価値を結びつけること
 
どんなに独創的と言われる芸術家・発明家でも
その人の生きている時代や民族性と無縁ではない
 
「無」からの想像というものなどなく
それは異なる価値を結びつけること
→その結びつけ方が「前例のない新しさ」
 
他人から評価されるか否か 社会から認められるか
自分自身で納得できるかどうかはまた別の問題で
ここでは関係ない
 
一人で部屋にいて考え事をしているとき
街や野山を眺め歩いているとき
家族や友人とのおしゃべりしているときの
精神の能動性の活用は社会的影響力は持っていなくとも価値の想像である
 
 
人間は感覚世界を足がかりにして
宇宙の真実とは全く無関係にどんな恣意的な結びつけ方も可能な仕方で
自由に考えイメージを広げ宇宙全体にアプローチできる
なぜなら思考やイメージは実質ではなく影のようなものだから
 
プラトンみたい!
 
そしてそれはそのまま宇宙全体の成分の動きに影響を及ぼす
→宇宙全体に新しい「つながり」を生み出そうとする
→肉体をもつものにしかできない
(霊界では自分と親近性のあるものにしかなかなか出会えない)
 
「誤り」も「勘違い」も「ウソ」も生み出すリスクを犯さないと
新しい創造自由な思考は生まれない
 
神々を離反するようなあらゆる邪悪さを選択することもできるような自由な状態の中で
私たちは「聖なるものを信じ」「愛を実現する」ことを選ぶということをしなければならない
 
「自分とは異質のもの」=他者
 
他社の価値観と出会うことは
すなわち異なる価値に目を開き
自らの中で異なる価値を結びつけることにほかならない
 
それは肉体を持たない魂にはできない
自分の中に存在しない性質のものと霊界でコンタクトを持つことは困難
 
肉体を持っている間に果たすべき「課題」を持って生まれてくる
それを持っている間に果たすべき「使命」を背負い
魂を成長させるための「修行の場」がこの世界
 
どんな苦しみにも意味があって人生において無駄なことはない
生まれ落ちた運命を受け入れつついかに新しい運命を切り開いていくか
 
そこに人間の自由と主体性の根拠がある
 
 
とこんな感じ
 
なにかのブログで
インドでヒンドゥー教の人に
輪廻の考えは
魂が生まれ変わるとかではなくて
 
自分の灰がガンジス河に流されて
その水の中で暮らした魚を人間が食べて
その人の血となり肉となり
そして排出されて土となり
その土から育った食物を食べたものの一部となり・・・
というそういう考えの輪廻ですと聞いたという話を読んで
そのほうが怪しくなくていいなと思いました
 
結局はやっぱりこーゆー生きる意味とか
何かしらないと生きていけないのが人間なので
自分に都合のいいところだけ切り取ってくっつけて
取り繕ってマイセルフ
 
 
だからDNAが子孫を残せと言っているのは
解脱できない魂を悟りへ導くために
人間界で何かを創造し
良きものとの繋がりを生み出すチャンスをつくれということなのかなあ
 
 
 

 「いろんなことを覚えて、むちのように鋭い切れ者になったって、
それで仕合わせになれなかったら、一体何の甲斐があるんだろ」
-------------------------『フラニーとゾーイーサリンジャー